ナチス・ドイツと芸術家たち【映像・建築・プロパガンダ】
今回の記事は過去に絵動-kaiDo-に出張記事として書いた記事の再編集記事になります。
テーマはナチス・ドイツと芸術家たち。硬い内容ですが気軽に読んで頂ければと思います。
ナチス・ドイツは、アドルフ・ヒトラーを指導者とした政党で戦争に敗北する1945年までドイツ国内で独裁政治を行った組織です。
では、ナチス・ドイツと共に活動を行った芸術家たちをご存知でしょうか?
知られざる「ナチス・ドイツと芸術家たち」をテーマに3人の人物をご紹介します。
ナチス・ドイツと芸術家たち
芸術家を愛したヒトラー
画像引用元:Wikipediaより
http://ja.wikipedia.org/wiki/アドルフ・ヒトラー
ヒトラーは青年期に画家を目指したというのは有名な話です。生活が困難だった際には、葉書や絵画を売ることで生活の糧にしていた時期もあるそうです。ただし、画家としての才能は認められず、ウィーン美術アカデミーには入学は出来ませんでした。
自身の本質は「政治家ではなく芸術家である」としたヒトラーは芸術家、特に建築家に対して敬意を持って接したと言われています。後述するアルベルト・シュペーアはその典型で、彼に対する寵愛は格別だったそうです。
また、軍人や知識人たちに対する強いコンプレックスを持っておりヒトラーが心許せる相手は結果的に「芸術家たちだけ」だったとも言えます。
ただし、芸術家全般に対して寛容の精神を持っていたわけではありません。自身を三度も落第させたウィーン美術アカデミーには弾圧を加えています。
また、ヒトラーは「ドイツ的ではない芸術」に対して攻撃を行っておりいわゆる近代芸術の否定、ロマン主義的写実主義に即した古典的芸術の保護を行いました。
画像引用元:Wikipediaより
上記の作品はナチスによって「退廃芸術」として扱われたエルンスト・ルートヴィッヒ・キルヒナーの作品です。彼は酷いショックを受け、自殺をしています。
彼以外にもユダヤ人はじめ数多くの作家・画家が退廃芸術家としてドイツを追われ、作品の没収、酷い場合は作品を破棄されています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/退廃芸術
ただし、ヒトラーが才気ある人達に支援を行ったこともまた事実です。フォルクスワーゲンの開発者であるフェルディナント・ポルシェやV2ロケットの開発者ヴェルナー・フォン・ブラウンたちは援助を受けた代表的な人物です。
それでは、実際にヒトラーから寵愛を受けた芸術家たちを紹介していきたいと思います。
プロパガンダの天才:ヨーゼフ・ゲッベルス
画像引用元:Wikipediaより
パウル・ヨーゼフ・ゲッベルス
1897年10月29日~1945年5月1日
「プロパガンダの天才」「小さなドクトル」と称された人物で、国家社会主義ドイツ労働者党第3代宣伝全国指導者、初代国民啓蒙・宣伝大臣を務めるなどナチスの体制維持に辣腕を振るった人物です。
ゲッベルスを芸術家として紹介するのは迷うところですが、今回はあえて芸術家として紹介をさせて頂きます。
- ラジオの効果をいち早く理解し、プロパガンダ制作に積極的に取り入れた
- 映画愛好家として知られ、プロパガンダ映画(映像)を積極的に制作した
- 宣伝の目的のためには手段を選ばない、ということを信条としていた
ゲッベルスの行ったプロパガンダはまさに天才的と言えます。「メッセージ開始後3秒間にジングル音などで人の気をひきつけ、その後本題を流す」というCMでも使われる手法は彼が考案したものとされ、その才能は現代でも十分に通用するものだと思います。
「犠牲者を英雄にすることで意思を統一する」「注目を集めるために意図的に暴力事件を起こさせる」「サクラを多用し、民衆を錯覚させる」などナチスが政権を取る前も後も彼は積極的にプロパガンダ活動を行いました。
ナチスで演説と言えばヒトラーが真っ先に浮かぶと思いますが、ゲッベルスもまた演説の名手として知られ、ナチスの戦況が悪くなり始めヒトラーが引きこもるようになると積極的に民衆の前で演説を行ったのはゲッベルスでした。
1943年2月18日に行われた「総力戦演説」は彼のもっとも有名な演説と言われています。演説の観客は慎重に選ばれ、観衆が熱狂するその声はラジオによってドイツ国内に響き渡りました。
画像引用元:Wikipediaより
https://ja.wikipedia.org/wiki/総力戦演説
「ゲーリングやヒムラーやボルマンと違って、彼は毎日の出来事にある程度距離を置くことができた。彼は自己中心的でもなく、臆病者でもなかった。彼はヒトラーに自分の考えを述べた。戦争を終えるべきだと考えた時もそうだった。私から見ればゲッベルスはプロパガンダの天才だった。ヒトラーが彼を作ったように、彼がヒトラーを作った。まさしくそう言えると思う。彼は非常に複雑な性格だった。そして完全に冷淡だった。国家社会主義の最もおぞましい部分、つまりドイツのユダヤ人に対する政策は、彼が推進力になった。」
アルベルト・シュペーアの人物評 「ヒトラーの共犯者 上 12人の側近たち」より引用
「ヒトラーが彼を作ったように、彼がヒトラーを作った。」この言葉が、ゲッベルスがプロパガンダの天才だったことを証明していると感じます。
実際に、当時のドイツ国民の持っていたヒトラーやナチスに対するイメージはプロパガンダによってもたらされたものです。
もし二人が出会わなければ、我々の知る「ナチス・ドイツの姿」にはなっていなかったと思います。それほどにゲッベルスが与えた影響を大きかったのです。
ゲッベルスはナチ党幹部の多くがベルリンを脱出する中、家族と共にヒトラーに付き添い最期は家族を殺害し自殺しています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/ヨーゼフ・ゲッベルス
ヒトラーに愛された建築家:アルベルト・シュペーア
画像引用元:Wikipediaより
ベルトルト・コンラート・ヘルマン・アルベルト・シュペーア
1905年3月19日~1981年9月1日
アドルフ・ヒトラーが最も寵愛した建築家として知られ、建築家でありヒトラー政権のもとで軍需大臣を担当するなど政治家としての一面も持った人物です。
戦後を生きたナチ関係者の中で最もヒトラーと親しかった人物と言われ、半生を記録した回顧録は貴重な文献として研究されています。
- 首都改造計画「ゲルマニア計画」の具体化設計・建設総指揮を行った
- 「廃墟価値の理論(Ruinenwerttheorie)」を創案し、ヒトラーはそれを熱烈に支持した
- ヒトラーの強い要請を受けて軍需相として政治家としても活動を行った
画像引用元:Wikipediaより
芸術家としてのシュペーアの名を不動にしたものとして「光の大聖堂」が挙げられます。150基の対空サーチライトを使用することで光の大列柱を作り出す表現技法で、現代ではライブ会場などの演出で使用されています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/意志の勝利
光の大聖堂の様子はレニ・リーフェンシュタールが撮影を行った全国党大会記録映画「意志の勝利」の中で確認することができます。上記の画像がで光の大聖堂部分です。ただし、モノクロ写真なのでちょっとわかりにくいです。
シュペーアが考案した演出をレニが非常に上手く拾い上げており「意志の勝利」は映像作品としての傑作の部類に入ると思います。
ただし、プロパガンダ映像という理由から戦後は評価が一転し、ナチス映像の代名詞として扱われるようになりました。この点に関してはレニ・リーフェンシュタールの項目で説明をします。
「廃墟価値の理論(Ruinenwerttheorie)」という独自の理論を提唱しており、今後新設される建築物は数千年後に美しき廃墟になるように建築されるべきであるとしたものです。
古代ギリシア・古代ローマの廃墟が当時の偉大さを如実に表すようにナチスも同じくその偉大な足跡を数千年後にまで残そうという発想です。
ヒトラーは熱烈に支持をしたといわれ、鉄筋コンクリート建築よりも石造建築が多く生み出されるようになった理由と言われています。
画像引用元:Wikipediaより
首都改造計画「ゲルマニア計画」とは、ベルリンを世界に誇る大都市に改造するための計画のことです。ヒトラーがグランド・デザインを行いシューペアが具体化設計・建設総指揮を行いました。
ただし、その大部分は戦況の悪化などから構想で終了しています。実際に建築された代表的なものはベルリン・オリンピックでも使われた「ベルリン・オリンピアシュタディオン」でしょうか。現在も使われている施設もあり、その姿をベルリンに残しています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/世界首都ゲルマニア
ヒトラーに寵愛された建築家として様々なナチス建築に関わり、政治的な活動も行うようになったシューペア。そんな彼は戦況が悪化したある段階からは「いかに早く敗戦後のドイツが復興できるか」を方針として活動を行ったと言われています。
シューペアがユダヤ人政策に対してどれほど知っていたのかは戦後も度々議論になりました。ニュルンベルク裁判では、唯一戦争犯罪を認めた被告として注目を集め、ナチス党幹部から非難されました。実際に彼がどれほどの事実を知っていたのかはいまも謎です。
確かなことは彼が優れた芸術家であり、その卓越した手腕は今もなお、多くの人達を魅了していることです。
シューペアは1981年にイギリスで心臓発作で亡くなっています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/アルベルト・シュペーア
天才女性映画監督:レニ・リーフェンシュタール
画像引用元:Wikipediaより
ベルタ・ヘレーネ・アマーリエ・リーフェンシュタール
1902年8月22日~2003年9月8日
ドイツ舞踏界を代表するスターと注目されていましたが怪我により断念。その後、映画女優として監督しての才能を発揮した人物。
ナチスが政権をとった際にはヒトラーの強い希望で、党大会の映画を撮影。「意志の勝利」は高い評価を受け、後に撮影されたベルリンオリンピックの記録映画「オリンピア」は彼女の監督としての名を不動のものにしました。
しかし、戦後はその評価は一転。「ナチスの協力者」として批判され彼女の活動は長い間、黙殺されました。
- 映画監督として様々な映像作品を世に出した
- 史上最高傑作とされるオリンピック映画「オリンピア」を制作した
- 「戦後はナチスの協力者」のレッテルを貼られ表舞台から姿を消した
レニは元はダンサーとして活動し、怪我によって女優・監督へと転身していきます。様々な環境が彼女に独創的な撮影方法を閃かせるきかっけになっており、彼女の映画監督としての才能は本物といえます。
山岳映画である「青の光」(主演・監督を務めた作品)での経験によって移動カメラによる撮影や小型エレベーターからの撮影などが生まれたとされています。
画像引用元:Wikipediaより
彼女の独創的な撮影を支えたのはヒトラーをはじめとするナチスでした。ナチスのプロパガンダ映画の撮影なのでナチスの協力は当然なのですが、ヒトラーやシュペーアとの繋がりはレニの撮影環境を良い物にしたことは言うまでもありません。
政治的な思想はさておき、レニにとってナチスを協力者とした撮影は人材・資金を元に自身の才能を発揮することの出来る最高の舞台だったはずです。
ベルリンオリンピックの記録映画「オリンピア(これは通称であり、正式名は「民族の祭典」「美の祭典」の2部作)」はオリンピック映像の不朽の名作として知られ、現在も非常に評価の高い映像です。
ただし、ドキュメンタリーとしての映像ではなく芸術作品としての評価が高い作品です。理由としては、映像の取り直しや音声の取り直しなど創作・演出が行われているためです。(生前、レニは修正を否定していますが)
レニのオリンピアに関して「記録か芸術か?」という議論が行われ、作品の評価をわけるポイントになっています。またそれ以前にナチスのプロパガンダ映画という評価を受けており、レニのキャリアを断った作品とも言われています。
余談ですが「記録か芸術か?」という議論は、東京オリンピックの記録映画「東京オリンピック(市川崑監督)」でも行われました。
おそらくレニとっての絶頂期はこのオリンピア撮影時だったと思われます。レニはナチス党員になることはありませんでしたが、結果的にはナチスに協力したことになり戦後、それは非常に大きな問題として彼女を翻弄していきます。
ナチス・ドイツが連動国に敗北するとレニはアメリカ軍とフランス軍によって逮捕され、精神病院に収容されます。
裁判の結果、ナチスの同調者であるが党員ではなく戦争責任はないという判決により自由になります。しかし、国内外から戦中の活動を激しく避難され、名誉毀損の裁判を何回も行いました。
結局、彼女の「ナチスの協力者」というイメージは拭いきれず世論を恐れた配給会社は彼女の映画を上映することはありませんでした。
100歳を迎えた2002年には「ワンダー・アンダー・ウォーター/原色の海」で映画監督として復帰しますが、これが最後の作品となり翌年に死亡しています。
レニはナチスにその才能を利用された被害者だったのか、それともナチスを利用して活動を行った加害者なのか。この議論は非常に難しいものです。
確かなことは映画人としてのレニの才能は素晴らしく、彼女の卓越した手腕は後の映像作品に大きな影響を与えたという事実のみです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/レニ・リーフェンシュタール
まとめ
ナチス・ドイツと芸術家たちいかがだったでしょうか?
一回の記事にするにはあまりにもヘビーな内容なのですが、なるべくわかりやすいようにまとめてみました。
これを機会に興味を持って調べて頂ければと思います。
ちなみに、この3名をピックアップした理由ですが現在の我々が持つナチスやヒトラーのイメージを作り上げたのは彼ら3人によるところが大きいと考えているためです。
ゲッベルスが「完璧な指導者」というイメージを固め、シュペーアが舞台を作り上げ、レニがそれを撮影する。そんな3人だと考えています。
度々、このサイトでも紹介していますが「やる夫で学ぶシリーズ」の傑作です。
今回の記事を書く際にも参考にさせて頂きました! 長編作品ですが、見る価値ありです!
それでは、本日はこれで失礼します。