処刑された人たちの最期の言葉【世界史編2】
今回は辞世の句・最期の言葉シリーズ「処刑された人物」の世界史編2になります。
処刑という絶対的な死を前にした人々の言葉を御覧ください。
目次
世界の処刑された人たちの最期の言葉集
私はドイツを信じます
アルトゥル・ザイス=インクヴァルト
1892年7月22日~1946年10月16日
オーストリア及びドイツの政治家で、オーストリア・ナチ党員として活動。1938年の独墺合邦においてオーストラリア側で中心的な役割を果たしたといわれています。
ニュルンベルク裁判では、虚言も吐かず、申し開きもせずに淡々と自身の行ったユダヤ人に対する残虐行為を語ったそうです。諦めに近い感情を持っていたようで、逃れられない死刑を覚悟していたようです。
彼の行動には一部、肯定的な評価もあったそうですが、結局は死刑からは逃れることは出来ずに絞首刑となります。
正確には「この刑執行が、第二次世界大戦の悲劇の最終章であること、そしてこの大戦の教訓がこれから引き出されるよう、諸国民の平和と理解が成就せんことを希望します。私はドイツを信じます」が最期の言葉になります。
「来るべき判決は憎悪なくして受けなければなりません」「とにかく憎悪はしません。(ドイツ)再建のためには(憎悪以上に)十分障害があるのですから。」と判決の日に医師に語るなど、最期までドイツの行く末を案じていたそうです。
彼が政治活動の中で行ったオランダでのユダヤ狩りの犠牲者には、アンネの日記で有名なアンネ・フランクもいたそうです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/アルトゥル・ザイス=インクヴァルト
人生ってそういうものさ。ああ、こうなるってわかっていたよ
ネッド・ケリー
1855年~1880年11月11日
オーストラリアで活動を行った伝説的な無法者・盗賊(ブッシュレンジャー)であり、その活躍は小説や映画の題材として何度も描かれた人物です。
人気がある理由は、無法者でありながら貧しい者は手を出さすに紳士的に振る舞い、極力「殺人」という手段には出なかったためだと思われます。富裕層のみをターゲットとしたネッド・ケリーは、貧民たちのヒーローとして敬慕の対象だったようです。
しかし警官との銃撃戦の末についに捕まってしまいます。逃げるチャンスはあったようですが「仲間を見捨てられるほどの偉大なディンゴには、俺は成れなかった」という言葉通りに彼は逃亡を拒否したそうです。
彼の死刑に対しては民衆はそれに対し80,000人に及ぶ助命嘆願書を出したそうです。しかし、死刑は覆らずに絞首刑となります。彼の母親は「わが子よ、ケリー家の者らしく死に向かいなさい」と処刑前の息子に投げかけたそうです。
権力に反抗したまさしく無法者で、アメリカの西部開拓時代に登場した無法者のヒーローたちと似たようなかたちで未だに愛されているのだと思います。
http://ja.wikipedia.org/wiki/ネッド・ケリー
のんびり、ちゃんとやってください。私は急いでいませんから
ウィリアム・ケムラー
1860年5月9日~1890年8月6日
ケムラーの罪状は内縁の妻を殺害したというありふれた殺人ではあるのですが、彼の名を歴史に刻んだ最大の理由はその処刑方法にあります。
ウィリアム・ケムラーは電気椅子で死刑になった最初の人物として歴史に名を刻みました。また、トーマス・エジソンとニコラ・テスラ間で発生した電流戦争のある意味、犠牲者とも言えます。
電気椅子を用いた処刑は「交流電流が危険だ」ということを広く広めたかったトーマス・エジソン側の思惑が見え隠れしています。
ケムラーは終始落ち着いた様子だったと言われ「皆さんの幸運を祈ります。私は良い場所を得るだろうと確信しています。準備は出来ています」など語っていたそうです。
そして死の直前、最期の言葉が「のんびり、ちゃんとやってください。私は急いでいませんから」という言葉です。罪状の割には随分と肝の座った男です。
しかし、人類初の電気椅子による処刑は散々なものでした。
処刑が完全に終わるまで8分の時間が掛り、皮膚下の血管が破裂し、出血し、身体が燃えるまでの惨状になったそうです。
余談ではありますが、電流戦争はエジソンが勝利しました。
エジソンは死刑制度に反対だったそうですが…この実験は強く推奨したそうです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/ウィリアム・ケムラー
私が灯したまま遺すトーチは誰も消すことができない。自由よ、万歳!
ペドロ・ドミンゴ・ムリーリョ
1757年9月17日~1810年1月29日
ボリビア独立の先駆者として知られ、愛国者としても知られている人物です。
スペインからの独立運動に参加し、ボリビアで行われた最初の独立運動に参加していました。
しかし、独立運動は失敗し他の愛国者と共に絞首刑をなります。
正確には「愛国者とともに私は死ぬ、しかし私が灯したまま遺すトーチは誰も消すことができない。自由よ、万歳!」が最期の言葉になります。
毎年7月16日には彼の出生地であるラパスの町で、1809年に起きた一連の愛国運動を記念した催し物が行われるそうです。その際にムリーリョを象徴するトーチを持ちながらパレードを行うことから「トーチのパレード」と呼ばれているそうです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/ペドロ・ドミンゴ・ムリーリョ
死は僕を自由にしてくれる。それは最高のジョークだ
殺人事件を起こした23歳の男性が世界的な注目を集めた理由は「死刑実刑時の最期の言葉としてジョークを語るとし、それを一般公募するコンテスト」を行ったためです。
「辞世のジョーク・コンテスト」はあまりにも被害者及被害者遺族に対して失礼であり、当時から非難が殺到していました。そのため、ジョークを言うことを考えなおし、紹介した最期の言葉になったようです。
正確には「死は僕を自由にしてくれる。それは最高のジョークだ。そして僕はその最高のジョークに値する」が最期の言葉になります。
なんと言いますか、本人は遺族に対して無礼な振る舞いをしたいわけではないとしていましたが、自分勝手さを感じてしまいます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/パトリック・ナイト
まとめ
処刑された人たちの最期の言葉【世界史編2】いかがだったでしょうか?
極限状態の人生の縮図とも言うべき5人の最期の言葉を紹介させて頂きました。
よろしければ他の遺言シリーズも見て頂ければと思います。
辞世の句・遺言シリーズは閲覧してくれている方が多いので今後、増やしていきたいと思いますのでよろしくお願いします!
それではまた別の記事で!