【アーティスト】若くして亡くなったスターたち【俳優】
このサイトの人気記事シリーズとして「遺言」「最期の言葉」がありますが本日はその変則型で「若くして亡くなったスターたち」の特集を組んでみました。
漠然と天才たちは早く亡くなるイメージを持っており、若くして亡くなったアーティストなどのニュースを聞くと僕は金城一紀さんの小説「レヴォリューションNo.3」のアギーのセリフを思い出します。
クリフォード・ブラウンは25歳で死んだ。ソウルが強過ぎたんだ。ソウルの強過ぎる人間は神様のレーダーに引っ掛かっちまう。神様はそういう人間を近くに置きたがる。だから、ソウルの強過ぎる奴はみんな早く天にのぼっていく。
金城一紀『レヴォリューションNo.3』「ラン、ボーイズ、ラン」より引用
本日は強いソウルを持っていた5人の人物をご紹介。
俳優、ミュージシャン、女優など芸術家たちを中心にピックアップを行いました。
目次
若くして亡くなったスターたち
青春の象徴:ジェームズ・ディーン
ジェームズ・バイロン・ディーン
1931年2月8日~1955年9月30日(満24歳没)
映画「理由なき反抗」などを代表作に持つアメリカの映画俳優です。わずか半年ほどのキャリアに関わらず、いまも故郷のフェアマウントにある公園墓地に献花が絶えないそうです。
レースに出るために慣らし運転をしながら会場に向かっている際に、横からはみ出してきた学生の運転する車と衝突。同乗者のラルフ・ウッタリックは軽傷で済みましたがジェームズは即死でした。
生前のインタビューではレースの危険性に関して聞かれた際に「車に乗っていて危険を感じるのは、レース場ではなく、一般の車道です」と語ったことや皮肉なことに事故の13日前に安全運転を呼びかけるCMの撮影を行っていたそうです。
映画「理由なき反抗」でジェームズが着たLeeの「101ライダース」は、ジェームズ・ディーンと共に「永遠の若者の象徴」としていまも愛され続けています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/ジェームズ・ディーン
もっとも偉大なギタリスト:ジミ・ヘンドリックス
ジェームズ・マーシャル・ヘンドリックス
1942年11月27日~1970年9月18日(満27歳没)
「ジミヘン」の愛称で知られるギタリストでその天才的なプレイは、後のミュージシャンたちに多大な影響を与えたことで知られ、雑誌・TVなどで行われる偉大なギタリストの特集では数多くの1位を取得している伝説的ギタープレイヤーです。
代表曲である「Purple Haze」はギターを演奏しはじめた人は一度は練習を行う定番ソングになっています。
ロンドンのホテルに滞在中に急死。その死は今もなお数多くの謎に包まれています。
関係者や当時の社会情勢などから複数の説が語られており、明確な答えは出ていません。
- マフィア殺害説
- モニカ・ダンネマン犯人説
- マイケル・ジェフリー犯人説
「ストラトの魔術師」と呼ばれ自由自在にギターを操った青年はわずか27歳で亡くなりました。しかし、その死後も彼の確立した演奏技法やスコアは残り続けて現在もギタリストをはじめとした音楽家たちに影響を与え続けています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/ジミ・ヘンドリックス
チャールズ・マンソン事件の被害者:シャロン・テート
シャロン・マリー・テート
1943年1月24日~1969年8月9日(満26歳没)
映画監督ロマン・ポランスキーの妻で女優をしていた方です。彼女の名を国際的に有名にしたのは、出演した映画作品ではなくチャールズ・マンソンの狂信者たちであるマンソン・ファミリーに殺害された事件によってでした。
チャールズ・マンソンは「女性は罪人」であるという独自の教えと共に信者を増やし、無差別殺人事件を計画して信者たちに実行をさせています。本人は計画のみで実行犯ではないのですが、共謀罪として有罪になり未だに服役中です。
殺害されたシャロン・テートは、当時妊娠8ヶ月であり母子共に亡くなりました。16箇所をナイフで刺される残忍な殺害方法で、しかもマンソン・ファミリーにとっては「金持ちなら誰でもよかった」という酷い理由によって殺害されました。殺人を実行したのは女性信者のひとりでスーザン・アトキンスという女性です。
ロマン・ポランスキーは、生まれることなく死んだわが子にテートと自らの父の名を取ってポール・リチャードと名付け妻と共に埋葬をしたそうです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/シャロン・テート
ザ・パンク:シド・ヴィシャス
シド・ヴィシャス
1957年5月10日~1979年2月2日(満21歳没)
セックス・ピストルズの2代目ベーシストで、21歳という若さでの死亡、極度の麻薬中毒など「パンク・ロック」を体現したような人生を崇拝する人たちは多く死してなおそのカリスマ性から新しいファンを生み出し続けています。
シド・ヴィシャスを語る上で避けられないのが恋人のナンシー・スパンゲンです。ヴィシャスとの破滅的な交際を続けた女性で、20歳の時に何者かに殺害をされています。ナンシー殺害はシド・ヴィシャスによって行われたとされ、第2級殺人で起訴されています。
ただし、実際にシドが犯人だったかは不明です。シドはナンシーの死の4カ月後にヘロインのオーバードースで後を追うように死亡しています。遺書のようなメモが見つかり自殺だったとされています。
二人の関係は1986年に「シド・アンド・ナンシー」で映画化され、二人の関係は広く知られるようになりセックス・ピストルズの音楽そのものが再評価される機会になりました。ただし「麻薬中毒を肯定している」「美化し過ぎている」など批判もあったそうです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/シド・ヴィシャス
音速の貴公子:アイルトン・セナ
アイルトン・セナ・ダ・シルバ
1960年3月21日~1994年5月1日(満34歳没)
F1世界選手権において1988年・1990年・1991年と、計3度ワールドチャンピオンに輝いた天才的ドライバーです。「史上最速のF1ドライバー」「史上最高のF1ドライバー」として語られ続ける人物です。
「音速の貴公子」は古舘伊知郎さんが実況中に言ったもので、日本国内では広く浸透しています。1980年代から1990年代前半のF1の象徴的な人物でライバルのアラン・プロストと共にF1人気を支えました。
1994年5月1日に行われたサンマリノグランプリ中に事故死。事故のシーンでは奇妙な走行が行われており「自殺説」など様々な憶測を呼ぶことになります。
この選手権ではローランド・ラッツェンバーガーも死亡しており、スポーツにおける安全性を高める転換期になったとされています。
セナの死は母国ブラジルだけでなく様々な場所で追悼が行われました。生前から関わりのあったホンダは、事故当時に契約はなかったもののその死を悼み、1992年にドライブしていたマクラーレンMP4/7A・ホンダとヘルメット(ロータス時代)を青山の本社1階に展示しました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/アイルトン・セナ
まとめ
若くして亡くなったスターたちいかがだったでしょうか?
何となく音楽家と小説家に短命の人物が多いように感じます。今回は音楽家が多かったので次回は小説家をまとめてみるかもしれません。
それでは次回の記事でお会いしましょう!