【美人薄命】若くして亡くなった美しき女性たち
今回は「若くして亡くなった美しき女性たち」というテーマでお送りします。
美人薄命とは、美しい人は病弱であったり、数奇な運命にもてあそばれ、短命という意味で使われる四文字熟語です。
文字通り「美人薄命」だった歴史上の美しき女性たちを紹介していきます。
目次
若くして亡くなった美しき女性たち
椿姫のモデル:マリー・デュプレシ
マリー・デュプレシ
1824年1月15日~1847年2月3日
アレクサンドル・デュマ・フィスの小説「椿姫」のヒロイン:マルグリット・ゴーティエのモデルとして知られる人物です。
裏社交界の花形として数々の男性を魅了した高級娼婦です。
気品あふれる美貌、美しい言葉遣いと多彩な知識によって音楽家のフランツ・リストや作家のアレクサンドル・デュマ・フィスも虜にしたそうです。
自身が結核により長く生きられないことを知り、刹那的な恋や生を愛したと言われています。
裏社交界の女王は、晩年にはアヘンに頼るようになり友人にも見捨てられ23歳という若さでこの世を去ります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/マリー・デュプレシ
ヴィーナスのモデル:シモネッタ・ヴェスプッチ
シモネッタ・カッタネオ・ヴェスプッチ
1453年~1476年4月26日
サンドロ・ボッティチェッリ作「ヴィーナスの誕生」のヴィーナスのモデルになったと言われている女性です。
フィレンツェ一の美女として知られ、イタリア・フィレンツェ共和国の政治家ジュリアーノ・デ・メディチの愛人としても有名な女性です。
23歳の若さで肺結核で亡くなり、その死を数多くの人たちが悲しんだそうです。
ジュリアーノ・デ・メディチの兄であるロレンツォは彼女の死に対して「生涯これ以上ないと思われる美しさが、さらにそれを超えた」と哀悼の言葉を残したそうです。
画家たちに愛され、フィレンツェに彼女を描きにくる画家も多かったようです。
ルネサンス期の異彩の画家ピエロ・ディ・コジモも彼女の肖像画を残しています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/シモネッタ・ヴェスプッチ
父親殺しの悲劇のヒロイン:ベアトリーチェ・チェンチ
ベアトリーチェ・チェンチ
1577年2月6日~1599年9月11日
ローマで起こった父親殺しの事件の主役であり、彼女の悲劇的な最期は絵画や文学に非常に強い影響を与えたとされています。
フランチェスコ・チェンチの娘として生まれたベアトリーチェは、父親から酷い虐待を受けていたそうです。父親とは近親相姦の関係にあったと言われています。
虐待に耐えかねた家族は父親を殺害、事故死であったとします。
しかし殺人事件として調査され、ベアトリーチェたちは逮捕され死刑を求刑されます。
一連の事件はベアトリーチェの兄であるジャコモが主導し、ベアトリーチェは何も知らなかったとも言われており、また虐待という事実に世間は同情的だったそうです。
実際に助命嘆願書がローマ教皇クレメンス8世に届けられたそうです。
しかし慈悲は示されず、22歳という若さで斬首となります。
一説ではクレメンス8世がチェンチ家の財産を得るために処刑をしたと言われています。
ベアトリーチェは、傲慢な貴族社会へのレジスタンスの象徴となりました。
また、毎年、処刑の前夜に彼女の幽霊が斬られた首を持って処刑された橋に戻ってくるという伝説が生まれました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/ベアトリーチェ・チェンチ
20世紀を代表するセックスシンボル:マリリン・モンロー
マリリン・モンロー
1926年6月1日~1962年8月5日
ハリウッド映画で活躍した女優。20世紀を代表するセックスシンボルとして、今もなお愛される人物です。
「ナイアガラ」「紳士は金髪がお好き」「百万長者と結婚する方法」など数々のヒット作に出演し、その魅力的な笑顔と豊満な身体は数々の男性を魅了しました。
銀幕の女王は36歳という若さでこの世を去ります。
自宅の寝室で全裸で死亡しているのが発見され「自殺」とされています。
ただし、この自殺には疑惑が多くいまだに他殺説が叫ばれ続けています。
大統領であるジョン・F・ケネディとの不倫は他殺説に真実味を与えています。
ケネディ家はマフィアとの繋がりが強いと言われ、マフィアのボスでありケネディ当選の影の功労者と言われるサム・ジアンカーナがフランク・シナトラを介してケネディ大統領にモンローを紹介したとも言われています。
- モンローの赤い手帳が部屋から消えていた
- 死亡時に電話を握っていたのに通話記録が一切ない
- FBIはモンローとの不倫やマフィアとの関係を大統領に忠告していた
マフィア側はケネディ大統領に不倫をさせることで、弱みを握りたい。
FBI側は不倫などのスキャンダルを阻止したい。
そのため、モンローが会話などを記録していた赤い手帳を回収し、証拠を隠滅の為に殺害したのではという説も実しやかに囁かれています。
2番目の夫である元野球選手ジョー・ディマジオはモンローを本当に愛していたと言われ、離婚後も献身的に彼女を支え続けました。
モンローの死を誰よりも嘆き、死の原因であると噂されるケネディ家を恨んでいたそうです。
モンローの死後も独身を貫き「ある女性誌がモンローについて話してくれたら5万ドル払う」という話をされた際も「世の中には金にかえられないものがある。それは愛の思い出だ」と答えたとされています。
彼の最期の言葉は「死んだら、マリリンのところへいける」だと言われています。
上の写真はモンローとディマジオのツーショット写真です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/マリリン・モンロー
未だに語られる死の謎:ウェールズ公妃ダイアナ
ウェールズ公妃ダイアナ
1961年7月1日~1997年8月31日
イギリスの第1位王位継承権者ウェールズ公チャールズの最初の妃で、名門貴族スペンサー伯爵家の令嬢、美しいブロンドの髪、魅力的な顔立ちなど「王妃」に相応しい女性でした。
しかし結果的にはダイアナはチャールズ離婚し、王宮を出ることになります。
離婚後のダイアナはより国際的慈善活動に積極的に取り組むようになります。
彼女の持つ積極性は、王宮に留まる王妃という立場とはミスマッチだったのかもしれません。
離婚後もその行動が注目されたダイアナは1997年8月31日に36歳という若さで交通事故によって亡くなります。この衝撃的なニュースは全世界を震撼させました。
ダイアナは当時の恋人であるドディ・アルファイドと共に死亡。
ダイアナは準国葬である「王室国民葬」が行われ彼女の死を多くの国民が嘆きました。
彼女の死には様々な憶測が語られています。その中でもとりわけセンセーショナルに語られたものが「イギリス政府暗殺説」です。
ダイアナが当時の恋人ドディ・アルファイドと結婚した場合、ダイアナがイスラム教徒に改宗し、未来の英国王の母親がイスラム教徒になる可能性がありました。
またダイアナは妊娠しており、アルファイド一族が未来の英国王の異父兄弟になる可能性もあったためにイギリス政府がダイアナとドディ・アルファイドを暗殺したというものです。
ただし、検死の結果ではダイアナは妊娠していなかったそうです。
この陰謀論は当時イギリス政府と険悪であったリビア政府が発表したものであり、ネガティブキャンペーンとして発信されたものだと思います。
しかし、この説を元に作成されたドラマやダイアナとかねてから語られているイギリス王室との確執などから「真実味」を持ってこの説は語られています。
ダイアナは非常に人気のある女性でした。
2002年にBBCに行った「100名の最も偉大な英国人」では、イギリスの偉大な政治家ウィンストン・チャーチル、世界に誇るエンジニアであるイザムバード・キングダム・ブルネルに続いて第三位に選出されています。
2013年9月にアメリカのCBSニュース番組で行われた「生き返ってほしい有名人」では第一位に輝き、二位のスティーブ・ジョブズにダブルスコア以上の差を付けています。
結婚前からマスコミに追いかけられ続け、ダイアナを経て「パパラッチ」という言葉を知った方も多いと思います。
そのため「ダイアナは世界で一番多く写真を取られ、記事にされた人間」と言われています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/ダイアナ (プリンセス・オブ・ウェールズ)
まとめ
若くして亡くなった美しき女性たちいかがだったでしょうか?
美しいから早く亡くなるのか、早く亡くなったから永遠の美を得たのか。
なかなか難しいテーマだと思います。
女性画ではクロード・モネの「日傘を差す女」が大好きです。
この絵画に関する解説が上記のサイト様でされています。
興味のある方はぜひ!